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『明治維新という過ち―日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』原田伊織 読了!☆☆

明治維新という過ち―日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト

歴史とは勝者の記録である。 これは古代、中世、近世、近代、そして現代といわれている現在も同様だ。

その時代時代の勝者は、みずからの権力への正当性を確保するために『正史』として、前時代の歴史を振り返るものである。 したがって、義務教育から、高校・大学という学び舎の中で教えられている『歴史』と言われるものは、正史であり敗者側の弁明の機会は与えられていない。

歴史上そういうことだからと言って、勝者側からだけの理屈を追っていても面白くもないし、なぜそういうことになったのか?という意味を見出すことは難しいのである。

そういう意味では勝者側の歴史に隠されている歴史の事実を、日本人の民族性を重視して、怨霊信仰言霊信仰ケガレ思想という観点から、敗者の歴史を浮き彫りにして新たな歴史の解釈を提示してきた井沢元彦の『逆説の歴史』シリーズは歴史のダイナミズムと日本人の民族性を浮き彫りにさせているという点で非常に面白いのである。

が、今回は逆説の歴史シリーズの書評ではなく、原田伊織氏による『明治維新という過ち―日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』の書評なのである。

本書は昨年1月に出版され、Kindle化を長らく待たせられて上で最近ようやく読むことができた。 本書が気になったのは『長州テロリスト』というキーワードである。 戦国モノに続き、幕末維新モノをいろいろと読みふけってきたが、幕末から大政奉還にかけては各陣営の枠組みが次から次へと目まぐるしく変わり、どこの陣営が何をしようとしているのかが非常にわかり辛い時代である。

が、唯一常に疑問に感じることは『天誅天誅!!』と江戸・京都市内を暴れまわっていた幕末の志士といわれているものたちのやっていることはテロリストでしかなく、なんでそれが尊皇攘夷の『志士』という位置づけなのかがさっぱりわからないのである。 当然のことながら、当時は廃刀令もなく武士は刀を差して大通りを闊歩している世の中であり、現代の感覚で当時を評価すべきではないことは重々承知の上である。

それにしても、『尊皇攘夷』を掲げておきながら、有力公家を脅し、朝廷を私有化せんがための京都の動乱は、学校で教えられてきた歴史や正史にのっとった歴史書だけでは非常にわかり辛い。

また、昨年の大河ドラマ『花燃ゆ』の残り1/4以降で、吉田松陰の妹である文が初恋の人である楫取素彦群馬県令として群馬に下ってからのシナリオになんか気持ち悪い違和感を感じたのだ。 最初のうちは富岡製紙工場も世界文化遺産になったんで、その観光PRも兼ねて明治殖産興業の中心の一つであった、群馬の養蚕をテーマにしたのかとおもって観ていたが、その内にどうも楫取素彦と文の人心掌握の過程が、明治維新を成し遂げた長州人の進歩的な施策で、江戸幕府以来遅れた風土の群馬を近代経済の中心に改革を重ねて実績を上げていく。まさに長州人の進取の気概は素晴らしいものである! という長州讃歌のようないやらしさを感じたのである。

これは本当か?というのが従来疑問に感じ続けてきた『長州がやっていることは所詮テロリスト』と重なり、本書をはやいとこ読みたかったのだ。

そんな中で出会った『長州テロリスト』というキーワードを掲げる本書は、明治維新は官軍教育による幻想であるという立てつけである。

まだお若い天皇を人質とし、勅許を偽造してまで決行した長州・薩摩と岩倉具視の討幕のためのクーデターは失敗に終わり、『王政復古の大号令』は実質的に消滅した。そこで長州・薩摩は『鳥羽伏見の戦い』へと幕府の挑発に成功し、一気に『戊辰戦争』という内乱へもち込んで、結局武力で討幕に成功した。そして、戦争に勝利した長州・薩摩が、世に「明治維新」と呼ばれる麗しい歴史を書いたのである。

現代の感覚で評価すべきではないという点では、若干現代の基準で考えている面も無きにしも非ずであり、行き過ぎた官軍教育の視点にこだわりすぎて、冷静な判断ができていない面も無きにしも非ずである。

明治維新というものがなんだったのか?という点においては、これまで教えられてきた勝者側の歴史と本書のような敗者側の歴史の両面を知った上で、読者が冷静に判断すればよいものと思う。

ちなみにボクは明治維新というものは、尊皇vs佐幕でも攘夷vs開国でもなんでもなく、ただの外様大名の政権奪取でしかないと考えている。 そこに司馬史観のような明治維新至上主義のような感傷は全く持ち合わせていない。

作者は薩長のやり方にかなりの不満を抱いているらしく、江戸・京都での天誅をはじめとして、戊辰戦争のきっかけとなった赤報隊の江戸放火連続事件等、とても武士のやり口ではないと非難しているが、歴史を回天させた事実を振り返るに、その原動力はみな既存の勢力ではない別の勢力・指導者による既成概念を越えた戦略・戦術によるものである。 源平合戦における武家育ちでは無い源義経の非常識な戦術しかり、鎌倉末期〜南北朝動乱における悪党の活躍しかり、室町末期から戦国期における足軽の存在しかり。 どの時代の転換期においても、それまでの常識の範疇にいる勢力では無い、思いもよらない勢力により歴史は回天されてきたのだ。

そういう意味では、幕末から御一新における薩長勢力の中核が、ただ正規の武士階級ではなく土豪や農民出身者だからといって、武士であれば考えられないと既存勢力の視点のみで非難できるものではないと考える。 このあたりが、独自の観点で歴史を整理しなおすモノではなく、作者のイデオロギーの範囲にとどまってしまっている本書の限界か。

また、明治維新を整理し直すという視点は大変興味深く、そのために本書を手に取ったといってもいいのだが、薩長に対する怨恨、そしてそれが現代にも続いていることへの不満に終始しており、では薩長による新政府のなにが悪かったのか?それに変わりえるモノはなんだったのか?という面での考察がほとんど述べられていないことが残念である。

本書を読む限り、下賎な薩長と下級公家による御一新等というモノよりも、すでに開国し、海外列強と渡り合っていた優秀な幕府の幕閣による新政体が構築出来れば、民族の破滅に繋がるような昭和の大戦や、現代の欧米追従の自立できない国家のような体たらくにはなり得なかったと言い切るが、ではなぜ薩長ではなく幕閣であればそれが成し遂げられるのか?なぜ歴史はそのように動かなかったのか?という考察が全くなされていないのである。

しまいには、最後の1/4くらいからは戊辰戦争における二本松・会津への哀悼や、西南戦争における武士階級の最終的な消滅への哀悼が続く。

乱暴なまとめ方をしてしまうと、『武士の気質をわきまえて、しっかりとした武士教育を受けてきたエリートたちにより新政体が構築されるべきであったが、武士道をないがしろにするような下賎な輩が、ただ権力欲を満たすために日本人にとって大切なモノを全て崩壊させてしまったことが、現代の日本が不甲斐ない根本である。』ということがいいたかったのか?

そういう意味では、テーマは非常に興味深いのに、作者による実証がほぼなされていない点が残念でならない。

ただ、大政奉還後に無理やり成し遂げたかのような王政復古の大号令が実は失敗に終わっていたという点は初めて知ったことであり、興味深い。 なぜ、その後の歴史では(アカデミズムの研究の中でも)このことに触れられていないのか?

明治維新という過ち―日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト
原田 伊織
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