SAY SILLY THINGS!

“TEAM H末端構成員”が妄想と現実の狭間で戯れます。

不惑の年

とぉ〜とぉ〜不惑の年を迎えてしまったのである......。
人生80年とするとすでに折り返し地点。
なんか、そんなところまできたという自覚は全く持ってない。

20まではなかなか長い道のりだと思い、実家を離れてからの30までの10年は学生から社会人という環境の変化もあったからか、夢中で走っていつつも時間の流れはまだ実感しながら過ごしていたように思える。
すっかり社会人にも染まりきり、時たま枕に思いもよらず華麗な臭気を感じる年頃となった30代の10年間はほんとあ゛っ!?という間だった。
一体、この10年ボクはなにをしていたのだろう???
世間ではヲッさん以外の何者でもない年代となっているにもかかわらず、その自覚もないままもはや不惑ワクワク、いや全然ワクワクなんてしていない。
40代という年代をボクはまだ受け入れられるほどヲトナになりきれていないと思うのだ。

先日、誕生日に電話をいただいた我が偉大なるリーダーからも40には見えないよなぁ〜といわれ、今日部下を連れて訪問した先でも部下のほうに先にお茶を出されるよぉ〜な始末なのだ...(^^;)ハハハ。


一体「不惑の年」とはなんなのか?
ここで再度確認してみた。


子曰く、吾れ十有五にして学に志し
三十にして立ち
四十にして惑わず。
五十にして天命を知り
六十にして耳順う。
七十にして心の欲する所に従って矩をこえず。


孔子論語の中の一節がもとではあるが、こんな大昔の70て......。
信長の時代でさえ、日本では人生五十年なのである。
人生五十年のなかでの四十年と現代のように人生八十年のなかでの四十年では自ずとその重みというか人としてのありようは違うのではあるまいか?

ここで無理くりボクの解釈をすると、昔は人生五十年なのだから、五十にして天命を知ってみなさん寿命を全うされるのである。六十七十というのはレアケースなのだ!ということにしておく。
とすると、人生五十年の世代が四十にして惑わずの年代迎えるとするならば、人生八十年の世代が不惑の年を迎えるのは60代半ばということとなる。まぁ〜定年して一服しているあたりになるか?
ならば、人生八十年の世代で四十を迎えるということは、人生五十年の世代ではどの辺かというと、二十代半ばとなる。
とすると...ほっほぉ〜まだまだボクは学に志してひとり立ちする準備を進めている渦中ということか!

これならば、まだ納得できるではないかっ!


と、ひとり屁理屈をこねているところがまだまだヲトナになりきれていないところなんだろぉ〜〜〜な...(^^;)ハハハ。


そぉ〜いえば、ボクの上司哲学の一つに「ブレないこと!」と掲げているんですが......。
四十にして惑わず......う゛ぅ〜ン、だいぢょぶなのか?