父との距離感



通勤途中に、ほとんど思いつきのネタ帳として使用しているMUCUのポケットブックを振り返ってみていたらと今年の春のメモに目が止まった。
そこには2行だけ書かれていた。

ドコモ春のキャンペーン
「遠かった親父がいま、ぼくの一番近くにいる。」

テレビCMを見て気になったんだろう。
親元を離れた子供と父親が携帯電話で繋がっている。
画面に映る状況だけ見てとればただそれだけの内容だ。
だけど、その内側の心情に思いを馳せるととてもハートウォーミングな感情が押し寄せる...。

気が付けば、すでに親元を離れてからの時間の方が、親とともに暮らしていた時間よりも長くなってしまった。
上京した当時、まだ気軽にケータイで繋がるような時代でもなかったが、このドコモのCMのように『親の気遣い』というものを身近に感じられるようになったは、親元を離れてからだった。

これは、とても不思議な感覚だった。
ついこの間まで一緒に暮らして、毎日顔を会わせていたにも関わらず、こんな近くに親がいるなんて感じたこともなかったのに...(^^;)ハハハ。

特に父親はボクが小学校のころはほとんど単身赴任をしていて家にいなかった。
父と顔を会わすのは週末土曜日の夕方から日曜日まで。
なので、当時ボク自身は祖母と母に育てられていたものだと思っていたのだ。

小学生というある意味一番の成長過程にある時期、父親の存在も母親の存在もどちらも揃っているに越したことはない。
ボクの場合、物理的にはほとんど平日に「父親」はいなかったことになる。
当時父は土曜の夕方に帰宅して、月曜朝一で赴任先に戻るというスケジュールだったので、実質的に土曜の夕方から日曜日にボクが寝るまでの間しか、ボクにとっては「父親」は我が家にいなかったわけだ。

しかし、一人暮らしをするようになって初めて自分自身のなかでの『父親の存在感』というものに気がついた。
「父親」は確かにいなかったが「父親の存在感」というものは確かに感じていたということ。
限られた時間しか過ごしていなかったにも関わらず、ボクには「父親がいなくて寂しい」とか逆に「いなくて清々する」といった感情を抱いた記憶が全くない。

思い返すと、土日の2日間の内おそらく18時間程度しかともに過ごす時間はなかったはずなのだが、この時間をともに過ごす密度が相当濃かったのだろう。
といっても、父はこの時間も全てボクのためだけではなく、母のための時間や自分の時間も使っていたわけなので、その時間のやり繰りはかなりマスター級である。

以前どこかで、「仕事の時間は質を重視し、家庭の時間は量を重視する」ということが書かれていた。
その時は納得したものの、父の時間の過ごし方を思うと父とボクとの時間の過ごし方は「質」重視だったのだろう。
どちらが効果的かはその家庭の事情によるのでどちらとも言えないということだ。


また、こんな父親とボクの週末の過ごし方だけでなく、母親の努力も素晴らしいと今では感謝せざるを得ない。
というのも、「父親が普段いない」という日常をボクに感じさせないように、日々ボクに対して父親の話をしてくれていたからだ。
おかげで、母を通してボクは父親が「どういう人で、どんな考えを持っていて、どんなことをしている人なのか」ということを感じることができていたわけだ。

父と母の二人の信頼関係があればこそ、子供との繋がりをどのように保つかというテーマをそれぞれの立場で実行していたんだと思う。
こんな父と母のボクへの愛情も親元から離れてみて初めて実感できたわけだ.........(^^;)ハハハ。


このことに気づいて、初めて素直に親に対して感謝できるようになった。
おそらく、そのまま実家で暮らしていたらどこまで理解できたかわからない。

物理的な「距離」を置いても、精神的な「距離」を感じさせない距離のとり方。
この両親のコミュニケーション術はボクも今後の人生の中で生かせていければなぁ〜と。

メモを観て、そぉ〜いえば上京当時にそんなことを思ったなぁ〜〜なんてなことをあらためて思い返した。
そんな両親も年金をもらうような年代になってしまった。
まだまだボクの中では現役のイメージが残っているが、親孝行できるうちから少しずつはじめていこうと思う今日この頃なのだ。